対談 第1回 たいらいさお × 髙橋育郎

童謡100年対談 第1回
たいらいさお × 髙橋育郎

たいらいさお プロフィール
 長崎県佐世保市出身。東洋大学卒。文学座附属演劇研究所15期生。1976年『ひとりの砂浜』(CBSソニー)でデビュー。NHKテレビ『おかあさんといっしょ』の三代目「うたのおにいさん」として活躍。その後アニソン歌手として『復活のイデオン』『トライダーG7のテーマ』など多くの作品がヒット。80年代半ばより、子どもから大人まで幅広い年代に渡り活動を展開。童謡,抒情歌を歌う希少な男性歌手として「童謡祭」はじめ全国各地の音楽祭や学校コンサートに出演。特に学校コンサートは現在までに約400校以上で演奏。また幼児向けのファミリーコンサートや、シニア向けの“歌う会”“講演”も大変好評である。1994年 ニューヨーク・リンカーンセンターで行われた童謡コンサートに参加。2012年、明治時代に誕生した佐世保にちなんだ唱歌“美しき天然”と大変好評なオリジナル曲“ありがとう さようなら”を収録したマキシシングルを発売。2016年4月から「洗足学園音楽大学」に新設された“声優アニメソングコース”の非常勤講師に就任。第25回「日本童謡賞・特別賞」を受賞。

髙橋 育郎 プロフィール
 1935年 東京都出身。1953年国鉄に入社し1988年に退社。1954年から約10年間、国鉄合唱団にて音楽を学ぶ。在職中に団体旅行ソング『シャンシャンいい旅夢の旅』をキングレコードから発売、お座敷電車『なのはな号音頭』など観光宣伝ソングを4曲発売した。1988年 ライフ・ベンチャー・クラブに入会、音楽イベント事業を行う一方、作詞作曲活動を行う。現在同クラブ運営委員。1992年「心のふるさとを歌う会」を始める。2001年 朝霞市滝の根学園「めだかの学校」、町屋「ぬりえ美術館・童謡の会」。作詞した『大きな木はいいな』が2001年全国童謡歌唱コンクールで金賞に。翌年「全国童謡サミット」にて「21世紀の愛唱歌」として選ばれ、『みんなの童謡200』に掲載された。日本童謡協会会員。元千葉県作詩作曲家協会理事。習志野市「生涯青春をめざす会」副会長。童謡100年プロジェクト顧問。

司会進行:童謡100年プロジェクト 代表 星 僚太朗

 今日は童謡100年プロジェクトの新企画として、三代目「うたのおにいさん」としても知られる歌手、たいらいさおさん、当プロジェクト顧問で作詞家・作曲家の高橋育郎さんのお二人を迎え、対談形式で童謡についてお話ししていただきます。どうぞよろしくお願いします。

髙橋 思えば、たいらいさおさんと初めてお会いしたのはCDを作った時ですね、2008年ですよ。ですから、いまから約7年前ですか。あのころ市川のヤマザキパンのサロンコンサートに何回かいきましたね。私が日本童謡協会に入ったのは、平成5年(1993年)だったんです。童謡祭で歌われるのが夢だったんですが最初の4年間ぐらいは、詩を出しても作曲がつかないという状態で、いわゆる鳴かず飛ばずの状態でいたんですね。それで、では作曲の方でやった方が早いと思って、2年ばかり作曲の方をやったんです。そのあと『大きな木はいいな』が作曲されて、2001年の全国童謡歌唱コンクール大人部門で金賞をとって、翌年、運よく「全国童謡・唱歌サミット」の時に稲村なおこさんが歌ってくれたんです。

たいら あれはどちらのサミットでしたか?

髙橋 豊川です。

たいら 私も行ってますよ。

髙橋 ああ、そうですね。あのとき、21世紀に歌い継ごうっていうことで、愛唱歌になったんです。そしてカワイ出版の『みんなの童謡200』に載って、NHKのFMで放送されたんです。そういったことで、パーっと拡まって、おかげさまで今回(2015年)の全国童謡歌唱コンクールでは関西代表、小学三年生の女の子が歌ってくれまして、銀賞でした。

たいら 2002年にサミットで歌われて、それが2015年童謡歌唱コンクールで女の子が歌ったと…。

髙橋 5年前に金賞になってから、ずっと歌われて…。おかげさまで、あれからもう、どんどん素晴らしい作曲者がついてくれて、これまでとは状況がガラッと変わったんです。

たいら あの曲は、作曲も?

髙橋 あれは作詞で、作曲は白川雅樹さんです。

たいら 髙橋さんは曲もお書きになるから、どっちだったかと。

髙橋 ああ、それはどうも。日本童謡協会に入って、たいらさんとは、いつも童謡祭とかでお会いするようになって…。ただね、童謡祭では、私の曲は、たいらさんにはまだ歌ってもらえていないので(笑)。その辺はちょっと残念です。今後は機会があるといいですね。

たいら 僕はね、もともと童謡を歌いたいって強く思っていたわけではないんです。2016年はデビュー40周年になりますけれど。そういうことではないんですよ。

 そうなんですか!?

たいら デビュー曲は流行歌ですから。いわゆる湘南サウンドっていうか、ポップス歌謡で、加山雄三とか、石原裕次郎とかの路線。まあ、足が短いのに、足が長い雰囲気の、アクション風な、ああいうのを目指して、そういう先生にもついていましたし(笑)。ただ、考えてみたら、デビューはポップス歌謡で出て、それが目標であって、ある程度その夢は叶ったんですけれど、その後、なかなか続かないという時代があって…。
 その時、『おかあさんといっしょ』の「うたのおにいさん」オーディションの話が、たまたま事務所の僕の担当じゃないマネージャーが持ってきたんですよ。レギュラーでテレビに出られるならっていうことで受けたんです。
 その当時は、とにかく歌い手として、何とか頑張っていかないといけないと思っていたので。今考えたら、オーディションを受けられるだけでも、大変なことなんでしょうけどね。奇跡のタイミングなんです。そこにめぐり合わせたっていうのは、後になってからわかりますけれど、やっぱり自分の中で、どこか必然性があったんだろうと思います。

 童謡を歌うことになったきっかけは?

たいら 「うたのおにいさん」になってからです。ただ、その「うたのおにいさん」になっても、「テレビの世界」で歌う歌であって、童謡という認識はなかったんです。これはポイントだと思います。大方の人はそうだと思いますよ。テレビで歌っている「子どもの歌」と、いわゆる大正7年の『赤い鳥』が出発点といわれている「童謡」を、同じものととらえている人は少ないと思うんですね。
 僕もそうでした。とにかく、新曲も、昔の童謡とかも歌うんですけれど、僕にとっては全部新曲ですからね。そういう意味では、新しい歌なんです。でも、身体のどこかに染みていた曲もあるんです。
 とにかく一生懸命、子どもの歌を歌っていたというのが、「うたのおにいさん」時代ですね。ただ、よく考えると、それがすんなりと、ナチュラルに自分の感覚になってきた時に、「何でかなぁ?」って、あの頃思っていたんです。

 歌が身体に染みていた?

たいら 僕は六人兄弟の末っ子なんです。姉たちがとにかく歌が好きで。わが家は、あまり経済的に恵まれた環境じゃなかったものですから、楽器などはなかったんです。とにかく親父は歌が好き。父親は外で平気で歌えるんですよ。むしろ、人前で歌って喝采を浴びるのが好きなタイプ。母親はまったく別で、人前で歌っているのは聞いたことはないんです。でもね、台所に立っているときは歌ってるんですよ。それなのに改めて「歌って」と頼んでも聞かせてくれない。
 まあ、兄弟たちはみんな歌が好きで。あの頃はラジオとか、地元の放送局でも、「子どものど自慢」って多かったんです。うちの姉たちも、『バスストップ』を歌っている兄の平浩二も、そういうのに出てます。だけど、僕は小さい頃は母親似で、あんまり人前で歌うようなタイプじゃなかった…。
 家中に童謡・唱歌も含めて、いつも歌があるわけですから。なんかあると歌うわけです、それしか楽しみがないですから(笑)。だから、童謡・唱歌が皮膚感覚で染みていたんでしょうね。「うたのおにいさん」で歌っているときに、フッと「ああ、この曲わかるなぁ」って。要するに、スーッと出てくるっていうか、パッと「ああ、あの曲だ」って…。

 どんな歌が記憶に残っていますか?

たいら 三番目の姉は、横浜にいるんですが、北原白秋・山田耕筰の『すかんぽの咲く頃』をよく歌っていましたね。「土手のすかんぽジャワ更紗」って歌詞です。あの「ジャワ更紗」っていう響きが耳に残ってね。でも「すかんぽ」もわかんないし、「ジャワ更紗」って何だ? ということですよね。ずっと、意味を調べようなんて思ってないんですよ、子どもの時はね。
 ただ、身体に言葉が染みているだけ。「兎おいし」を「兎おいしい」と思っちゃうのと同じで。大人になって、童謡を歌ってなきゃ「ジャワ更紗」なんて調べないでしょ。誰も、わからないですよね。僕らと同い年のあれを聴いた人はわかんなかったでしょうね。

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髙橋 歌謡曲の時代で、これはという曲は何でしたか?

たいら 『幸せだなぁ』とか、『夜霧よ、今夜もありがとう』。そういったものも含めて、和製ラテンから、ちょっとしたスタンダードなジャズっぽい曲まで、一通り、なんでも。

髙橋 それを歌っているうちに、アニメの歌を歌うようになりましたよね。

たいら いや、それは違うんです。最初は、大人の歌謡曲だけを歌っていたんです。先ほど言いましたけれど、なかなかデビュー曲がヒットしなくて、「うたのおにいさん」のオーディションがあって、三代目の「うたのおにいさん」をやらせていただくことになって、それを二年間終えた後に、キングレコードからオファーがあったんです。アニメソングというものがウァーッとブームになって、キングも時代に遅れちゃいけないっていうんで、「たいらさん、専属になってくれませんか?」っていうオファーがきて。
 で、専属としてアニメソングを歌っていくということになって、1980年に、いわゆるロボットものの『トライダーG7』を歌ったんです。それから何年間かは、いわゆるアニメソングが中心でした。
 アニメは、いわゆる子どもの歌の延長線ですから、要するに、違和感はないわけですよ。「うたのおにいさん」がアニメソングを歌うというのは自然な流れだったんです。
 だから、その頃にもまだ「童謡」という言葉にも出会ってないんですよ。

 どこが転換点なんですか?

たいら 80年代の中頃になって、ひとかたアニメの主題歌をワーッと歌って、20曲ぐらいオリジナルソングもできました。その頃から時代がまた変わってきてね、アニメソングというものが、いわゆる子どもの歌というジャンルから離れていって、ひとつの新しい音楽のジャンルを作っていこうという流れになってきたんです。
 典型的なのが、森口博子さん。ああいう方が、世に出ていくための入り口として、アニメの歌を使って、ドンとスターになっていくというスタイルが始まったんです。いわゆるアニメの歌だけ、子どもの歌だけを歌う歌手が、専属的に歌っていく、なんていう時代が終焉を迎えようとしたときなんです。
 で、僕らには、オリジナルが回ってきにくい状況になったんですね。その時は大変に悩みましたね。正直いって、仕事がほとんど発生しなかった時期が3、4年続いたんです。司会とかそういうことをやりながら、やりくりしていました。
 そんな時に「日本の童謡200選」を全部CDにしようという話が…。

髙橋 そうでしたか。

たいら たぶん1986年のレコーディングが、僕の童謡の入り口です。その後、童謡祭に出たのは、1988年か1989年、平成になる直前ですね。その頃から、日本童謡協会の皆さまと深く関わるようになって。と同時に、九州の小学校でコンサートを春と秋とやってみるスタイルが始まって。
 いわゆる、学校コンサートを全部で400校ぐらいやっているんです。子どもたちとか、学校の先生に、どうやって童謡のハートを、学校のコンサートを通して伝えていくかっていう一つの使命みたいなものを感じていくようになるわけです。

髙橋 400校はすごいですね。

たいら ただ、タイトルとしては、童謡ということでないんですよ。たいらいさおコンサートということで、元「うたのおにいさん」が楽しく歌を歌います、その中のコーナーで童謡を歌うというカタチで。

髙橋 だいたい学校へ行くと、どのぐらい演奏時間をもらえるんですか?

たいら 50分から1時間ぐらいですかね。

髙橋 体育館とか、講堂とか、広いところでやるんですか?

たいら まあ、ほとんど体育館ですね。なかには、充実した音楽室みたいなものを持っている学校もあって、そういうところでやる場合もありますけれども、当時はまだ子どもたちが多かったですから。全校生は集めきれないで1年生~3年生で1回やって、午後に4年生~6年生をやることもありました。
 そこでね、僕の中で、童謡の持っている生命力みたいなものを、だんだん感じていましたから。
 今、童謡が100周年を迎える直前ですが、大正時代の童謡、あるいは、ろばの会、あのような時代までの成熟した童謡、ああいうものを使って、子どもたちにメッセージを伝えていこうと。

 どんな曲を歌ったんですか?

たいら 一番歌い続けたのは「あめあめ ふれふれ かあさんが」で始まる『アメフリ』なんですよ。これはもう、どこでも歌ってました。ほとんどのメニューに入れています。

髙橋 私も物ごころついた頃に教えてもらった童謡が『アメフリ』でした。だから、懐かしいなぁ。

 どうしてこの曲を歌い続けたんですか?

たいら 子どもはね、一緒に歌える歌、遊べる歌、リズムがある歌、動物なんかをテーマにした歌が好きなんですよ。でもね、人と人の心の情愛っていうようなというものはスッと入っていかないんです。
 ですから、最初は、リズム遊びとか、一緒に歌ったりすることで、まずエネルギーを彼らに出させるんですね。まず一緒に楽しむ。私のやり方ですよ。それで、こっちに近づいてきたときに、実はこういう歌があって、これって友だちを想う気持ちにあふれているよね、とか、お母さんと傘に入って帰ることを喜んでいるよね、とか、雨が降っても雨がちっともつまんなくなくて、むしろ楽しく描かれているよね、昔こんな歌があったんだよって。蛇の目の話をしたり…。

髙橋 「さしたまえ」というのは、東京下町育ちの私には、山の手言葉って感じがしましたね。

たいら おっしゃるとおりですね。もうひとつね、お母さんが迎えに来てくれるならまだいい、そんな時代じゃなかったんだ、という方もいるんですよ。それはそれで正解なんですよね。
 作詞は北原白秋ですが、言いたかったのは何なのか?
 僕はいつも言うんですけれど、「あめあめ ふれふれ かあさんが…」で始まって、5番の最後まで、文字の数を数えたんですよ。「ピチピチチャプチャプランランラン」という擬音を抜くと、たったの130文字しかないんですよ。

髙橋 なるほど!

たいら たった130文字の中に、お母さんが迎えに来てくれて、嬉しい子どもの躍動と、その親子の情愛を描いています。道すがら、泣いている子どもを見かけて、自分の傘を貸してあげようと、お母さんに「貸してもいい?」と聞いて「この傘をさしたまえ」と。
 傘は100円で買えなかった時代ですよ。自分の傘を貸すってことは、結構大変なことです。「俺の腕時計を持ってけ!」というぐらい、結構、大事件なんですよね(笑)。
 白秋の詩にはないんですが、傘を差し出す子は、「君に傘を貸してあげるけれど、僕はお母さんと二人でずっと話しながら帰っていけるから、僕は幸せなんだ」ってことですよね。130文字の中に、僕の勝手な映像ですけれども、ここまで描かれているドラマっていうのが、なかなかない。

髙橋 子どもたちにも伝わったと?

たいら いや、どうかな。それは僕の問題なんです。僕が伝えたという一つの確信を持っていくしかないという。まあ、後で作文とか書いてくれるんですけれど、そんなに『アメフリ』の歌に関する反応は多くない。あの『アメフリ』の曲の内容が理解できました、なんてことは書いてありません。ただ、僕も子どもの頃に感じたように、皮膚に染みてくればいいわけです。
 結局、耳から入って脳で理解するというよりも、子どもの頃の、あの歌が残ってる、とか、染みてるっていう感覚は、ずっと後年に活きてくると思うんです。そういう使命感を持って歌えるのが、やっぱり童謡じゃないですかね。他にはないですよ。

髙橋 耳から入って頭で理解するのではなくて、皮膚や身体に染みさせておくわけですね。それがきっと人格形成にも役立ってくるんじゃないでしょうか?

たいら 僕のテーマはやっぱり“命”ですよ。友情とか、いじめとか、結局“命”の問題なんです。僕は小さい頃、「人の命は地球より重い」ってずっと教わってきました。そういう言葉だけはずっと自分の皮膚に残っているんですね。だから、人に手を出したり、殺めたりという最悪の悪を止めることができる。そういう哲学が、童謡にはあると思うんですよ。だから歌を通して、そういう種を植えるっていう…。

髙橋 そうそうそう。

たいら 子どもの心の中に、種を植えれば、いつかは芽を出します。種を植えなかったら、絶対に芽は出てきませんから。だから「種は植えたぞ」と。やっぱり「人を想う気持ちは大事だよ」と。
 そういうことを、童謡でできるという可能性をずっと信じているわけです。もちろん自分で作るオリジナル曲でも、そういう精神を持って作っていますけど。でも、やっぱり童謡は、人の心をパァーッと明るくしたり、そこからいろんな想いを引き出したり、童謡というものは、それだけ力を持っているんじゃないかと思っていますから。

髙橋 学校で歌ってきた実績は大切ですね。これからも活動をやってもらいたいんだけど、なかなかそれがうまくいかない状況ですよね。「童謡100年プロジェクト」の意義もそこにあると思うんですよ。学校で子どもたちにそういうことを伝えていくのは大事ですから。

たいら いま話していて、様子が見えてきました。学校で、いい音楽を聴かせるというのはやってると思うんですよ。でも、どーんと、童謡を子どもたちに聴かせるっていうことは、正面切ってやってない。ですから、童謡100年、その次の101年、102年からのことを考えたら、やっぱり学校の中で、童謡を使って、一つの芯のある歌を歌っていくっていうことは大事だと思いますね。

髙橋 だから、学校の先生だけでなく、教育に携わっている方々にもそういう理解を持っていただきたいですね。今、たいらさんがおっしゃったとおり、童謡の大切さというものを、伝えていくべきだと思います。

たいら 「童謡100年」、これもいろいろと物議があるんでしょうけど、大正7年に線を引いていない人もいるからね。だけど、「赤い鳥運動」というのは、明確に線を引いていいと僕自身は思っています。
 だから童謡100周年の2018年までに、その気運っていうか、童謡の存在っていうものを、みなさんでもう一度再認識してほしいですね。大人も、子どももね。日本には、こんな素晴らしい子どもの歌、童謡があるんだって。外国にはないよと。認識を改めてもらう。だけど、そこで終わっちゃダメなんです。
 そこで何をやるかっていうのが、僕はひとつの、教育現場でやっていくことだと思います。まあそれと、日本は高年齢化していきますから、童謡を使って、そういう人たちの生きがいへの手助けなんかもできると思います。

髙橋 童謡を生かすには、やはり子どもの時にね、身体・皮膚に染みるようにやっておかないと、いい成長はできないですね。さっきのお話しのとおり。子どもはその時に理解できなくても、後になってわかってくるんですね。

たいら そのまますぐ反応を期待するわけではないんです。クラシックを聴かせてもそうですから。ただね、良いものは残していかなきゃダメなんです。
 だから、童謡も両輪だと思うんです。片や、『アメフリ』を歌いながら、やっぱり新しく生まれてくる童謡も聞かせたい。だから、新作は哲学性のある、本当に良いものを作ってもらいたいですね。新しく生まれた童謡と、100年前に生まれた童謡を両方聴いて欲しい。

 現代の童謡作家が、新しい童謡を生み出しているんですけれど、なかなかスタンダードになっていかない、定番曲が生まれにくくなっていると思うんですよ。僕らも、これまでの童謡と、新しく生まれてくる童謡を、もっともっと知ってもらう機会を増やしたい。これまでの100年、これからの100年という風に考えています。

たいら 星さん、新しい童謡をどう考えていますか?

 新しい童謡もいっぱいあるんですよ。日本童謡協会をはじめ、各地にコンクールがある。それを有名な歌手が歌えば、ひとつ話題にはなるのかもしれない。手法はともあれ、今後歌い継がれていくような曲にならないと。そこがひとつの課題だと思います。

たいら そうですよね。実は、そこも両輪だと思うんですよ。「童謡100年プロジェクト」では、「NHK朝のテレビ小説」で『赤い鳥』創刊の頃の童謡界を描いた物語をNHKに要望する署名活動をしていますよね。そんな作品が放映されれば大きな起爆剤になると思いますし、あるいはNHKの『みんなのうた』とか、ああいうところで特集してくれたら、メジャーになるのかもしれません。
 でも、それは片方の車輪であって、もう片方は教育現場でしっかりやっていくことだと思うんです。これは国とか都道府県とかで、がんばってもらいたい。
 日本童謡協会と童謡100年プロジェクトで連携を取りながらやってほしいですね。
 こう言っちゃったら、自分の首を絞めるんですけれど(笑)、二十代ぐらいの優れた才能を持った人が出てきて、若い感性で真剣に子どもの歌を書いてもらいたいですね。歌で子どもたちの心や文化を育てていく、世界を作っていく方が出てこないと、なかなか拡がっていかないと思いますよ。
 出てきても、僕は負けませんけどね(笑)。

 私たち「童謡100年プロジェクト」としても、そういった若い作家が出てきてほしいと願っています。そうすれば、教育現場も本気になるのかなと思います。

たいら 中田喜直先生は、若い頃、NHKの依頼で書き始めても、もちろん流行歌も書いていましたが、亡くなるまで、ずっと童謡にこだわっていらした。湯山昭先生もそうですけれども。そういう方々が身近に、いらっしゃるということも、同時にどこかで大事だと思うんです。
 だから、二十代、三十代、若い人が書くことが大事なんですが、そういう作家も晩年までずっと書き続けたっていうこともね、どこかで大事だと思うんですよ。

髙橋 私も同じ意見です。今日は貴重なお話、どうもありがとうございました。

2015年11月18日 東京 丸の内にて
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