山田耕筰と幕張(高橋育郎)

山田耕筰と幕張   高橋 育郎(童謡100年プロジェクト 顧問)

 日本を代表する大作曲家、山田耕筰が幕張にいたという話を知る人は少ない。ましてや「からたちの花」の生まれたところなどはなおさらである。むしろ、巣鴨の説がいきわたっているようだ。しかし、耕筰が自伝で幕張といっているのだから、間違はない。
 耕筰は昭和32年に自伝「はるかなり青春の調べ」を出している。
 さて、幕張は今やメッセがあり、高層ビルが立ち並ぶ副都心になって久しい。かつては海辺の漁師町であったのだから、その変貌ぶりはすさまじい。ちなみに筆者は昭和38年28歳のときに移り住んだ。目の前は海で潮干狩りのメッカであった。40年になって、埋め立てがはじまったのだ。
 町の中心部に旧千葉街道があって、往時を偲ばせる屋敷町になっている。その通り沿いに3丁目公園という小さな公園があり、遊具施設が2,3あって、町の子供たちの遊ぶ姿が見られる。その公園の一角に小ぶりの石碑がある。近づいてみると、次の一文が刻まれていた。
 『江戸時代、幕張は天領として、北町奉行所の配下にあった大須賀家は代官所にあてられていた。当時の建物は昭和43年、千葉市に寄贈され現在、加曾利貝塚の一部に「代官屋敷」として保存されている。明治15年、明治天皇が市内中野方面における陸軍対抗演習統監の際、休憩所にあてられた。
 また、山田耕筰が幕張小学校に通った頃、このあたりに見事なからたちの並木があり、名曲「からたちの花」が生まれたと言われている』
 自伝によると、尋常高等小学校に9歳(明治28年)の高等1年のとき築地から転校した。父が病だったので、療養のために転地し、学校にも代官所(このころは千葉郡の郡役所)にも近い旅館の離れに仮住まいした。毎朝、宿の裏垣根をくぐって、畑のなかを走って通ったという。父はキリスト教の伝道者。母はミショナリーな恰好をしていて、耕筰もまた水兵服を着せられていたので、村の悪童連が「異人ぱっぱ」とはやしたてた。気弱な耕筰は、一人では外出できず、母が付いてきたという。一方、インテリの子として敬われもした。郡長の家の坊ちゃんとは仲よしになり、遊びに行くと、17歳のとてもきれいな人がいて、耕筰はその人に可愛がられ、いつしか姉さまと慕うようになった。そして夢見るような甘美な思いの時を過ごしたのだ。
 学校までの畑には、からたちの見事な並木があって、泣いた日もあったが、エデンの園でもあった。だが1年もしないうちに東京へ戻る。そして姉さまは胸の病で亡くなった。後に白秋にめぐりあったとき、からたちの思い出を白秋に話した。
こうして「からたちの花」が生まれたのである。
 幕張は耕筰にとって、少年期の短くはあったが、忘れがたい濃密な思い出の地であると言っている。

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