童謡爺さんのどうよう語り(4)

童謡爺さんのどうよう語り(第4話)
                             高橋育郎

 童謡の読みかたは、時代により変わってきたという話をしよう。
 言葉は時代によって変わるというのは、よく聞くね。童謡も然りだ。童謡という文字が使われたのは、古く7世紀なかばで、蘇我入鹿事変を予言した「岩の上に小猿米焼く米だにも たげてとほらせ山羊の翁」(かもしかよ せめて小猿の焼き米でも食べてゆけ)というのが文献にあって、このとき童謡は(わざうた)とよんでいた。わざと作ってはやらせたから、神わざの歌だから、つまり予言の歌だからという説があるが、面白いのは、子供を仲立ちにするという意味があって、子供は純真で神秘性があり、真似事が好きで、知った事を素直に伝えていく性質があるから、伝播の役割、つまり通信手段として活用したということだ。まったく驚いてしまう話だね。
 そのルーツはやはり中国から渡来したもので、中国では治世がいいときは、麒麟や鳳凰が現れたり、逆に天下が乱れると太陽に異変が起きたりすると、童謡がさかんに歌われると信じられていたそうだ。そういったことで、童謡は流行歌的な存在だったのだね。「岩の上」が流行ったときに、蘇我入鹿事件が起きたから、この歌が予言したといわれた。ほかに風刺の意味もあったんだ。しかし平安時代になってから、催馬楽(さいばら)や風俗歌(ふぞくうた)に移り変わっていったんだ。
 一方、童謡は子供が歌うという意味合いが強くなり、平安中期ころから今様(いまよう)が盛んになってきたとき、後白河法皇が「梁塵秘抄」という今様の選集を出したのだが、この中で子供も歌える歌を、童謡とよんでいるんだね。だから大正になって生まれた童謡とは意味合いが違っているね。
 江戸時代になって、童謡は子供の遊び歌となって、定着し(わらべうた)と呼ばれるようになってきた。わらべうたは今も本筋では変わらず、ずっと歌い継がれてきているのだ。
 さて、童謡はようやく大正になって、本来の子供の歌「どうよう」として独立したジャンルで登場したのだ。すなわち大正7年7月のことだ。
 このとき以来、童謡は「どうよう」となって、今日にいたっている。1918年のことだからまだ90年くらいきりたっていない。童謡が、どうようとなってから、それほど時間はたっていないのだね。これも驚きだよ。
 ところで大正7年7月というのは何が起きたのか。実はこのとき童謡の生みの親、小説家である鈴木三重吉が童話と童謡の雑誌「赤い鳥」を発刊したのだ。これが童謡運動の始めとなった。
 三重吉は夏目漱石の門下生で、「桑の実」や「千鳥」といった短編小説で知られた存在だった。長女が誕生した時、我が子に良い話や歌を与えたいものだとあたりを見回したが、どうも心を潤す、芸術性豊な薫り高い作品はないということに気づいたんだね。そこで、ならば自分でそういうものを生み出したらいいだろうと、一念発起して、自分に共感してくれる作家に呼びかけ、そこに集まった優秀な人材の力を得て「赤い鳥」を編集発行したのだ。三重吉の呼びかけには、ほんとうに素晴らしい人材が集まったものだと感心してしまうのだが、おかげで童謡運動に火がついて、見事な成果をあげていくのだ。
 言葉は時代によって変わっていくといわれているが、童謡も然りで、(わざうた)から始まって(わらべうた)となり、最後に(どうよう)となったんだね。(つづく)

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