童謡爺さんのどうよう語り(3)

童謡爺さんのどうよう語り(第3話)
                             高橋育郎

 人間年齢をとると、昔のことが無性に懐かしくなるものだ。父母のこと、祖母のこと、それから幼な友だちと、思い出していくにつれて胸が熱くなるね。
 ところで、わたしは耕太という分身を主人公にして、いろいろ想い出を実録風に書いているのだが、このほど、また一冊の本に纏めた。「たのし」の7月号で、ありがたいことに紹介してもらったのであるが、内容は昭和初期、10年代から20年代半ば頃までの子供の遊びを主体に実体験に沿って書いた。
 とにかく、あの頃の子供はよく遊んだものだ。車社会なんて、まだほど遠い時代だったから、子供はどこでも羽をのばして、のびのびと駆け回って遊んだものだ。
 そうした環境がよかったせいもあるが、子供たちは勢力的によく遊んだ。そして大人もまた「子供は風の子だ」といって、子供の遊ぶのを目を細めて見ていた。そんな雰囲気もまた子供が無心に遊べる支えになっていたように思う。
 いま思うと、当時の子供は、日本の風土の中で培われた伝統の遊び「わらべうた」を、かなり忠実に再現していたと思う。だからそういう意味で、爺はそれらの体験した遊びを細大漏らさず書こうと意気込んだ。でも,その点は、書いてしまってから、あれもこれもと書き落としてしまったものがあったね。しょうがないなぁ。
 しかし、それより何より日本の子供の遊びは素晴らしいと気づいたね。世界に誇る日本の文化だと、叫びたくなるようなきもちになった。
 そこで、こんどはそのことを書いてみたいと思うようになった。たとえば、代表的な「鬼ごっこ」や「鬼さんこちら」「うしろの正面だあれ」では鬼が子供の相手役で出てくるね、鬼が子供の遊び相手で、あの怖いはずの鬼との対比が面白い。鬼とは一体何者か、考えてしまう。
 お伽話に出てくる鬼はどうか。「桃太郎」の鬼は、逃げ回って、やっつけられて、宝物まで差し出してしまった、なんともあっけにとられるほどの従順さだ。「こぶとり爺さん」などは、朝がくるまで歌って踊って、無邪気そのもの、ところが鶏の声を聞いて、慌てふためいて逃げてしまう陽気で臆病者だ。「一寸法師」の鬼も一見強そうだが、小さいからだの男の子にに飛込まれて、やっぱり慌てふためいて逃げてしまう。どれもこれもお人よしの愛嬌者が多い。このように一見強そうで、意外ともろいのだ。こうした鬼の存在、人間との関わりはどう読みといたらいいのか。興味のある問題だと思う。
 そして、こうしたお伽話は、明治、大正にかけて、ほとんどが唱歌や童謡になって、子供は歌ったり踊ったり、遊びの対象にして、お話が歌とも結びついたから、一層親しみを増して行ったのだ。
 更に、子供の遊びと歌の関わりをみると、大きなウエイトを占めるのは、何といってもわらべうただ。いいかえれば子供たちはわらべうたを歌って、それに合わせて遊んだのだ。
 わらべうたは、歌とはいいながら遊びそのものだった。わたしたちは子供の頃、わらべうたを歌いながら遊んだといって過言ではない。わらべうたの話は、次号にまわしたい。(つづく)
 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

ピックアップ記事

  1. セミナー: 子孫が語る「本居長世と本居貴美子たち」(其の二)のご案内

  2. 【写真&楽譜集(CD入り)】四季の童謡 歌景色《秋》《冬》

  3. 大澤ファミリー、すがも児童合唱団 参加CD紹介

ランキング

ページ上部へ戻る